主体的に生きるために 2
今回は、前回の追記で、筆者がぜんそく性気管支炎と診断されたところからです。
医師-患者の関係を例に、人間関係において主体的かつ慈しみあうために必要なことは何なのかを探ります。それは、自分が何を推測し、何に合意してしまっているかに気づくことです。そのため、質問するという行為を有効に使うべきなのです。
前回を振り返りたいなら、こちら
また筆者を材料に使います。お読みの際は、ご自身に引き比べていただけるといいと思います。ただし、症状自体は個別的です。同じような症状だからと言って、同じような解釈が常に成り立つわけではありません。文脈から伝えようとしているエッセンスを分かろうとしてみてください。
医師の見解
ぜんそく性気管支炎と診断した医師の見解です。次のようなことを述べてくれました。
風邪後に咳が続く場合、それは極めてぜんそく患者に似た症状を呈し、ぜんそく患者に使用する薬が、この場合90%程度の効果を上げる。また、効かない10%に対しては、別の薬があり、それでも効かない人には、さらに別の薬がある。見通しとして、薬なしで治そうとしたなら、咳は1ヶ月以上続く可能性があるが、薬を飲めば、1週間ほどで治まるだろう。そして、ニヤッと笑った医師は、この日午前中だけで、同様な症状の人は、筆者で6人目だ、と付け加えた。
さあ、どうしましょう。
医師の見解を受けて
まず、質問すべきことがないか考えます。それは、推測による思い込みを避けるためです。今回は、大丈夫そうです。過不足なくコミュニケーションは成り立っているように思えます。
次に、もっと大事なことです。筆者がこの見解に合意するか合意しないかを選ぶのです。この権限を誰がなんと言おうと、私は有しています。私がこの見解に合意すれば、投薬を受けるでしょう。合意しなければ、帰宅途中に処方箋を破棄するでしょう。私は、瞬時に自分の内面を見つめます。
合意した場合、その意図は恐怖から来ているだろうか。確かに咳は嫌だ、つらい。筋肉痛は出ているし、ノドの粘膜からは血が出そうなくらいだ。それに仕事が始まったら、クライアントに迷惑をかけるかもしれない。これ以上、このひどい状態が続くのを好まない。いま目の前にどうにかできるかもしれない方法が提示されているのだから。
合意しない場合、その意図は恐怖から出ているだろうか。確かに咳はつらいが、インナーワークで乗り切ることも可能なはずだ。しかし、それは既にやっている。これ以上、身体を苦しませる必要はあるだろうか。いま目の前に苦しみを取り除けるかもしれない方法があるのだから。
あれえ、なんかだか、すでに合意しているようです。ほんとにいいのでしょうか。
フツー、薬飲むでしょ。合意だかなんだか知らないけど、こんなことわざわざ書くほどのこと?
そうですね。普通はこんなこと考えたりしないでしょう。
しかし、想像してみてください。もし、もっと重い病気だったらどうでしょう。もし、もっと命にかかわるような症状なら、どうでしょう。あるいは、仕事上の重要事項、あるいは人づきあいでのトラブルでは、どうでしょう。もっと不安にかられるような状況の中にあれば、いよいよ判断は難しくなるでしょう。だからといって、闇雲なままでよいのでしょうか。人生でのあらゆる局面において、自分が何を推測してしまい、何に合意しているのか、無自覚なままでよいとは思えません。
無自覚なままなら、被害者になってしまう
具体的な例でみてみましょう。
たとえば、クライアントさんの話の中で、よくあるのですが、医師に「かくかくしかじか」なこと言われたのだけれど、頭にきちゃった。というのがあります。
この場合の筆者なら、ニヤッと笑った医師に憤慨する可能性もあるわけです。こんなに咳で苦しんでいる私を前に、6人目だよって面白がるなんて、ひどい医師だ。
これ、医師に問題があるように見えなくもありません。伝え方を工夫しなくていいのかと。もし、そうだとして、ここに合意するなら、私の内面はどのようなプロセスをたどるでしょう。
内面で起こるプロセス
この医師の態度が問題なんだよね。こっちは、病気で弱っているんだから、もっと気遣ってくれなくてはいけないのに。患者は不安だってこと、ちっとも分かっていないんだ。もっと理解してくれるべきだよ。私をないがしろにするなんて、ひどい医師だ。そういえば、こないだだって、こんなこと言ってた、あんなこと言ってた。噂じゃ、ヤブだって言うし、もうここへは来ないぞ。こんなことのために、こんな気分にさせられるなんて、泣きっ面に蜂だよ。なんて私は不幸なんだ。
と、まあ、こんな感じになるでしょうか。
医師を加害者、私を被害者に仕立てる
ここでやったことは、医師を加害者に、私を被害者に仕立てることです。私という被害者の正当性を担保するために、思いつく限りの医師の欠点をあげつらいます。そして、傷つきやすく、脆い私であろうとするのです。そのあげく、驚くべきことに、私の幸せをただ1人のこの医師の態度にゆだねてしまっているのです。配偶者や家族でもなく、たった数分間対面しただけの人物に、自分の幸せの責任があると主張しているのです。
極端ですか?
ここでは私と医師を例えに書いていますが、だれにでも似たようなことが人生の途上で思い当たると思うのです。
…あなたは急いでいる。前をのんびり行く人を邪魔に感じて、イラッとする。
もし、こんなことすら、ないと言い切れる人がいたなら、あなたは、生まれながらの天使か、それとも…。
それにしても、こうまでする目的は何でしょう。わざわざ自分を被害者にして、私は怒って当然、罪を償わせる要求をするのが当然と主張し、いつの間にか攻撃権を手にしています。
心理的に言えば、身近な人との間の葛藤を投影しているのでしょう。おそらく、親子関係か何か。
しかし、それを攻撃の目的とみていいものでしょうか。攻撃は最大の防御だとするなら、いったい何から何を防御しようとしているのでしょう。
投影することの正当性のための防衛
筆者は思うのです。身近な人との間の人間関係の投影すら、投影であると。
投影が起こっている現場は、心の中です。
自分の心の中で、思っていることが投影されているということであるならば、正当性を担保しなければならないのは、正当性がないことに合意しているからです。
自分を気遣っていないのは、自分です。自分をないがしろにしているのは、自分です。そして、これらを認めたなら、生きていけないと思い込んでいるのです。だから、このことは隠されなければなりません。しかし、隠し場所は心の中です。いくら隠そうとも、心はそれを感じざるを得ません。
これが罪悪感です。
こうして、隠せば隠すほど、自らの内に罪悪感が降り積もり、いよいよ目を反らせなくてはなりません。そのためには、この私にとって、この医師は絶対に有罪でなければなりません。
このようにして、罪は創出され、この医師は罪人となり、私は罪悪感を抱えて生きることになります。
大げさですか?
いいえ、こうしたことの積み重ねで、人生を楽しめなくなっている人が多い気がするのですが…。それこそ、私の思い過ごしならば、嬉しいことです。
もし被害者になってしまったら
さて、こうなると、私にできるのは、次の2つのどちらかだけです。
待つこと
1つ目は、この医師が気づいて態度をあらためてくれるのを待つ。待ちながら、時間経過による忘却が解決してくれるかもしれません。ただ、このやり方には欠点がいくつかあります。主導権を相手に渡してしまい、私の手元にないということ。つまり、医師しだいであること。それに、傷つきやすく脆い私であることに合意したままなので、他の病気や怪我を引き受けなければならないおそれがあること。似たような場面に出くわすたびに、思い出し、不幸に陥る可能性大であること。そして、ことあるごとに、罪悪感が頭をもたげてくることです。
ゆるすこと
2つ目は、もう少し実際的ですが、難しいと感じるかもしれません。
被害者である私から、加害者に差し出す贈り物をすることです。
その贈り物とは「ゆるす」です。
『私にも欠点があるように、この医師にも欠点はあるのだ。私も間違うことがあるように、この人も間違うことがあって当然ではないか。同じ人間同士なのだから、当たり前のことだ。そもそも私は、罪のないところに罪を見てしまっただけなのだ。この医師は、このことを教えてくれるために私の前に現れてくれたのだ。だから、ゆるそう。』
こうすることで、この医師を加害者であることから解放するのです。すると、自分自身が被害者であることから解放されます。心に巣くっていた罪悪感は取り消され、私は自由になることができます。
どのような関係にも言える
もう一度書きますが、ここでは医師と筆者との関係をたとえ話にしただけです。これは、どのような人間関係にもあり得ることです。親子関係、配偶者関係、職場や近所の人間関係、などなど。少し周りを見回してみてください。あなたの本当の相手を見つけられるはずです。そして、案外、1つ目のやり方をやってしまっていることに気づいてください。
気づいたなら、2つ目のやり方を試してみてください。他のどこかに行くでもなく、口に出すでもなく、ただ、あなたの心の内でやってみればいいことです。数行前の『 』のやり方に戻って「医師」と書かれたところに、あなたの相手の名前を入れて読んでみましょう。うまくすると、からだがスッと軽くなることに気づくかもしれません。
質問をする。そして、線を引く。
でも、医師・セラピスト側に本当に問題があるってことはないの?
実際、患者が不安なのは事実なのだから、気遣って欲しいと思うのは、いけないの?
そもそもこんなことを防ぐことはできないの?
相手の事情の全てを理解しているわけではない
ここからは、医師・セラピストに限らない話として書きましょう。
相手に問題があるということは、あり得ます。しかし、単純に決めつけてしまえば、ここまで書いてきたことを繰り返すだけです。相手の事情の全てを理解しているわけではないあなたが、それを見極めるには手続きがいります。
また、さり気ない気遣いや、そっと寄り添うような共感的態度はうれしいものです。しかし、強要、押しつけ、見返りを求めるなどが忍び込めば、やはりここまで書いてきたことの繰り返しになります。
では、こうした事態にならないためには、どうすればよいのでしょう。
それは、推測による思い込みの排除と、自分が何に合意しているのかに注意を払うことです。
遠慮は無用、質問しよう
具体的には、遠慮なんかせずに、質問することです。
ニヤッと笑って、6人目と言った医師の態度に対し、失礼なやつだと推測し、その推測に合意したところから迷路に入り込んだのです。つまり、質問はこの時になされるべきですが、あとからだって、かまいやしません。
「いまニヤッとして、6人目って楽しそうにおっしゃったのですけど、それはどういうことなのですか?」
そうすれば、医師は応えるでしょう。たとえば、こんな風に、
「この時期、たくさんの人が、あなたのような症状を訴えて来ます。そして、みなさん、この処方でよくなっていますよ。だから、安心してくださいというつもりで、笑ったのですが…」
このようにして、推測は修正されます。この修正に合意することをよしとするなら、問題は妄想でしかなかったと知れます。
そして、こうした修正にも合意したくない場合、さらに質問を重ねて行くことです。
いくつかの質問を繰り出す中で、合意できれば、歩み寄れたということです。合意できず、物別れに終われば、相手の課題と自分の課題の間に線を引けるでしょう。あるいは、質問に対して、向き合ってくれない場合、手を変え品を変え、やれることはやったなと思えれば、やはり相手の課題と自分の課題の間に線を引けます。いずれにせよ、態度を崩さずに貫くことが大事です。このことは、相手がどんな人であれ、その人と主体的に交流しようとするなら、基盤として必要な手続きです。ここに慈しみあう関係が成立します。
もちろん、全部に注意を払うのは難しいです。できるだけでしか、できません。それでも、できるだけの努力を習慣づけるのは無駄ではないのです。
何を推測し、何に合意しているのか
周囲の人の話す言葉、メディア、SNS、すべては発信者の考えの表明に過ぎません。
あなたは、そのどこに推測を持ち込み、そのどこに合意していますか?
あなたが、身体や人生の悩みを見てもらおうとする、そのセラピスト。そのセラピストには、自身の信念、技法の背景となる信念、経営上の信念、その他、いろいろな信念が付随しています。関わるということは、その影響を受けるということです。
あなたは、そのどこに推測を持ち込み、そのどこに合意していますか?
もちろん私の発言も例外ではなく、この文章もまた例外ではあり得ません。
あなたは、そのどこに推測を持ち込み、そのどこに合意をしていますか?
その後
ここで、モデルになっていただいた医師に、ごめんなさい。断りもなく勝手に出演してもらっちゃいました。
この医師と筆者との関係は、本当は良好です。そして、この診察時、筆者はこの医師の見解に合意しました。と、同時に、心密かに自分自身と約束もしました。咳について、きちんとワークすると。
薬で、症状を楽にするということは、症状に向き合う余裕を作るということです。筆者はこの咳症状の目的を見た上で、他に何らかのメッセージ、あるいは何か思い出す必要のあるものが出てくるのではないかと思ったのです。症意(症状の意味)から言えば、何か言いたいこと、叫びたいこと、表現したいことが、心の底にある、と、なりそうですが…。
実際、いくつかの技法を使って、メッセージを汲み上げました。そのいずれもが、1つのメッセージを指し示します。それは、
「なにもするな」
ああ、なんということだろう。
次回に続きます。
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