身体のこと~for Body

風邪の解釈~何を受け入れているのか

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主体的に生きるために 1

シリーズ:「主体的に生きるために」の第1回ですが、タイトルは単独名にしました。
話は2013年の年末から2014年の年始めのこと。
久しぶりに引いた風邪を解釈する事例です。自分がどのような考えを受け入れているのか。それを知ることが主体的に生きるために必要なことではないだろうか。

風邪を引いた状況

27日、手の空いた15時くらいまでに、この文章の初稿を書き上げました。そして、夜はワイン会へ出席。翌28日の仕事納め後から家中の掃除と片付け。31日の午後には、野毛地区の伊勢山へ1年のホコリ祓いでお参りし(これはついで)、関内の利休庵で年越し蕎麦をテイクアウト(これが本当の目的)。その夜、気づいてみればノドが痛い。ここ最近では珍しい。まあ、こんなのは翌日には消失するので、放っておきました。ところが、元旦ますます痛い。ありゃ、何年ぶりかの風邪の兆候。それでも実家(2駅南)へ出かけます。なにしろ肉の係です。これがないすき焼きはあり得ないでしょう。そして、1日夜には発熱したので、早めに就寝。2日の朝にはすっきりしていたので、鎌倉へ初詣。イタリアンの店で、いろいろワインを開けてもらって…。ありゃあ、夜には発熱。さすがに、しばらくじっと動かないでおこうとなりました。そう、旅行の予定はおじゃん。いやいや、そんな計画ありゃしません。

風邪を解釈する~様々な療法の違い

当院は、一体、どのような整体院なのか。
去年の終わり頃、あらためて考える機会がありました。私自身としては、ごく普通の整体院のつもりでいたのですが、まあ多少のずれは認めるにしても。どうも一般的イメージから、はみ出してしまっているようなのです。時には、ウチダ教と言われることもあったりして。いっそのこと宗教にしてしまうか。その方が楽かな、なんてね。うそですけど。
たとえば、先ほどの私の風邪の話をどう読み解きますか? 結局、どのように解釈するか、症状解釈の仕方によって様々な療法の特色が出るのだと思います。

人混みでうつされた風邪菌だかウィルスが体内に入って、繁殖を始めてしまったから、風邪を引いた。その前段階には、主として飲酒、仕事等による疲労の蓄積がある。医療的には、そう診断されて、薬が出されるのではないかと想像します。
栄養系の人ならば、日頃の栄養の取り方について述べるでしょう。飲酒量と疲労からすれば、栄養、特にビタミンCが足らなかったのではないか。
整体系の人ならば、普段から身体を整えて置かなかったからだ。とか、骨盤や何番だかの背骨にずれがあるのだとか。あるいは血行が悪くなっているとか。
心理系の人なら、実家へ行くことにトラウマがあるとか。
宗教系の人なら、そんなところにいい加減にお参りするからだ、とか。
スピリチュアル系の人なら、神社などに集まる集合意識に作用されたとか。新しい年へ向けての浄化とか。
ここに少し挙げただけでも、こんなにあります。他にもいろいろな見方ができるでしょうが、私はそのいずれも、否定しようとは思いません。そのように見える視点は確かにありそうです。

主体性を失わない解釈

その前提

では、内田はどのように見るのかです。その代表的方針です。
まず、前提を理解してもらうように努力します。

1:前提:この症状は自分が作り出したことを認めることです。
他の誰のせいでも、何かのせいでもなく、自分自身が何らかの目的を持って作り出したのです。だから、どんなに苦しくても受け入れなければなりません。それどころか、歓迎して受け入れましょう。
2:その上で、この症状の中にいながら、この症状が何のために出ているのかに思いを馳せましょう。
3:そして、いよいよ必要なら、助けを求めましょう。

前提を含め3段階です。ここから流れによって、様々に派生していきます。
この内、難しくて、厳しいのは、1:前提の部分です。理解していただくのは容易ではありません。時に、怒り出してしまう人もあるくらいです。ウィルスのせいにしない。疲労のせいにもしない。栄養のせいにも、骨盤のせいにも、トラウマのせいにも、環境のせいにもしない。ましてや前世や進化だとかのせいにしない。自分自身のせいだというのは恐いことに思えます。けれども、自分以外のせいにしてしまったなら、自分の外側を変えるか、変わってもらうかしか手はないことになります。

自分は何を受け入れているのだろう

ウィルス…消毒しまくる。疲労はためないようにし、栄養を十分にとって、骨盤は常に整え、トラウマは、えーっとカウンセリングに通い、環境にも配慮し、前世は、前世は…。結構、大変です。そして、たとえば、こんな風…、
治してもらおうと、とあるセラピストを訪ねて、介入してもらう。するとどうだろう、うまいことに症状は軽くなった。ありがたや、ありがたや。こうして、セラピストの自尊心は満たされ、帰依者が1人誕生する。
よくなったんだから、いいじゃないか。
そうでしょうか。
ここで、セラピスト側が意識しようがしまいが、クライアントは強烈なメッセージを受け取る可能性があるのです。
「あなたは自分で健康を維持することはできません。だれかの力にすがらなければならないのですよ。とりわけ、私の力に。それほど、あなたの身体は不完全なのです」
こうして、症状があらわれるたびに、あるいは予防のために、自分の不完全さを補うために、どこかに通い続けるのです。

前提を受け入れるとするなら

では、前提を受け入れると、どうなるのでしょう。
症状を作り出したのは、現在生きているこの自分だ。だから、治癒する力もいまの自分が持っている。当然のことだが、自分のこの治癒力を信頼している。今回たまたま、人の手を借りる必要を感じたから、セラピストの所へ行く。セラピストと自分は対等な関係だ。重い荷物を動かすとき、ちょっと手伝ってもらうようなお互い様の関係なのだ。
こう思うことができたなら、この人の治癒力は最大限に発揮できる状態になっているでしょう。
もともと身体というのは中立的な存在です。適切な食事、適切な運動、適切な休養。本来なら、これだけで十分健康にやっていけるように出来ています。多少の怪我や病気は自然に治してしまう力を持っています。そこへ、心が葛藤を抱え込む。そのほとんどが対人関係由来ですけれど。それが身体に反映すると、症状は慢性化するか、繰り返すか、転々と場所を変えて発症します。このために、やはり自身の内面に目を向ける必要があるのです。
そこで、症状が何のために出てきたのかに思いを馳せましょうってことになります。原因ではありません。原因に目を向けてしまうと、何でも原因になり得ることに気づきます。原因を扱うときには、それがスケープゴートというか、そうかもしれないし、そうでないかもしれないということを意識しておくべきです。

筆者の風邪のその後

さて、私の風邪は、私が作りました。そして、思いを馳せれば、どうやら、しっかり休みたい、何もしないでじっとしようよってことのようですので、積極的にお休みモード。あれやこれやは置いといて、たまにはこんな過ごし方もあってよし、ボーっと。ついでに、飲酒もお休み。おまけにビタミンCも入れてみよう。
何だ、そんなことしないんじゃなかったのでは?
いえいえ、してはいけないとは言ってませんからね。そうしなければという、不安や義務からではなく、主体的に選び取るのです。
ともかく、そうすると、症状の役割は抜け落ちて、咳だけが少し残りました。これに思いを馳せれば、27日に書き上げた原稿が気に入らないってことらしい。で、書き直してみましょう。それでも残るなら、病院かなあ。すごく久し振りだけれど…。

追記…6日になっても咳がおさまらないので、病院へ行ってきました。風邪をきっかけとして起こった、ぜんそく性気管支炎。

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