原因と結果に、困惑したことはない?
そんなことないよって言うなら、いいんだけど。
近頃、いろんなところで、「すぐに結果を求める」みたいな表現がよく使われている気がする。
それって何だろなって思うのはヘンかな。
だれだって結果を求めてるに決まってる?
そりゃ、仕事や生活上の問題は、いつだって待っちゃくれない。
そう言いたいのはわかる。
だけどさ、1つの結果を求めていたとして、それ以外を拒絶したとしたら、思いもしないような、もっとすごーい結果はない。
ある残念な結果を経て、ある輝かしい結果が出現する。
なあんてね。
あらゆることは、起こっちゃうだけ。
そうした起こっちゃうことに、オープンでいられるかっていうか、そうするしかないって話。
からみあう原因、広がりゆく結果
人は常に結果を求める。
そのために、原因を探る。
しかし、探っても、それが本当の原因なのだろうか。
どのようにしたら、それこそが原因であると言えるのだろう。
いろいろな要因が絡み合う。
原因の原因、そのまた原因。
そうやって、原因をさかのぼる。
さかのぼって、さかのぼって、そうすると、もっともっと絡み合っていることに気づくしかない。
そして、どうして、それこそが原因だと言えるのかということも、わからなくなる。
反対に、結果を推し量ろうとする。
選択肢の先の選択肢、その先の選択肢。
ずっとずっと先を見通そうとする。
そうすればするほど、不確定要素が絡み合い、結果の多様性の中で迷子になる。
注意の外を知らない
だれかが声高に叫ぶ。
「私は、ついに原因を突き止めた。求める原因はこれだったのだ」
そう。確かに、その人は求めるものを目撃したに違いない。
けれども、それが本当にそれの原因なのかはわからない。
検証に検証を重ね、それらしいところに接近はしているようには見えちゃうのだろう。
どの情報を切り捨て、どの情報を拾い集めたのか。
その取捨選択の根拠は、ただ、その人が、自分の望む解釈を欲しているということ。
その人は、その人の望む部分に注意を向けていたということ。
往々にして、ぼくたちは、原因と結果の関係を勘違いする。
ぼくたち、人の認識は、注意を向けた部分を知るだけだ。
注意の外の、圧倒的に広大な領域で起こることを知れるはずもない。
猫の頭と尻尾、あるいはニワトリと卵
たとえば、鍵穴のようなものを覗いていると想像してみよう。
ぼくたちの注意は、鍵穴によって限定されている。
その注意を向けた部分、鍵穴の向こうを、猫の頭が通る。
次に、猫の尻尾が通る。
このことから、尻尾の原因は猫の頭だと主張したら、笑っちゃうでしょ。
本当のところは、1匹の猫という全体の、部分と部分を順に目撃したということなのに。
ニワトリが先か、卵が先かなんてのも、同じ。
ニワトリというダイナミックな生命の部分と部分を順番に目撃したということに気がつこう。
実は、世間をよく見ると、こんな風な見当違いは、たっくさん目にすることができる。
この、本来、原因とか結果とかいうものではないもの。
猫の頭の次に、尻尾が来そうな感じとか、
信号が青になったら、自動車が走り出しそうな感じとか、
低気圧が近づくと、雨が降りそうな感じとか、
いっぱい練習をしたら、うまくなりそうな感じとか、
セラピストにかかって、症状が楽になりそうな感じとか、
そういう感じのことを、
トレンドとか傾向
というのであって、原因と結果とは違うもの。
木からりんごが落ちるのをみて、ニュートンが気がついたのは、物と物とは引き合う傾向があるってことだ。
質量の積に比例し、距離の二乗に反比例するようなトレンドがあるって言ったんであって、りんごが落ちる原因を述べたのではない。
トレンドの”だまし”
ここで、ちょっとトレンドについて見ておこう。
トレンドという言葉、ファッションや相場に興味がある人なら、お馴染みだと思う。
ファッション
ファッションなら、服とか着こなしの流行のこと。
それには、「はしり」があって、「盛り」があって、「なごり」があるけど、
「はしり」が「盛り」の原因だなんて、思わないでしょ。
「はしり」は原宿あたりにありそうだけど、それが「盛り」になるかは不明。
ほとんどが「盛り」になる前に消えていく。
それでも、ファッション通を自認するなら、「はしり」のときに乗っておきたいと思うから、チャレンジしちゃう。
そして、「盛り」になったら嬉しくなって、ならなかったら、気に入る度合いによるけど、次の「はしり」らしいものに乗り換える。
相場
相場なら、価格は上昇するか、下降するか、変わらずかだ。
上昇トレンド、つまり価格が切り上がって行く局面を見つけられれば、買いで利益を取りやすい。
逆に下降トレンド、つまり価格が切り下がっていく局面を見つけられれば、売りで利益を狙える。
だけど、トレンドがあるからと言って、狙い通りに価格は動かない。
上がると思って買ったのに、買った直後に急落するなんてことは、ざらだ。
そんなとき、「いやいや、絶対上がるはずだ」なんて、含み損が大きくなって行くのを眺めているなら、ヤケドするから手を引いた方がいい。
フラクタルなトレンド
トレンドは、時に人をだます。
ニュートンの言うことだって、当てはまらない状況はある。
なぜか。
さっきも書いたように、ぼくたちは、注意を向けた部分にトレンドを感じるということをしているからだ。
ファッションや相場で言うトレンドは、時間に縛られている。
このときのトレンドは過去のデータでしかなく、また、どの時間尺度で見ているのかにもよるんだ。
1年の観察なのか、1日の観察なのか、1時間の観察なのか、5分の観察なのか…。
あるいは、人の寿命を越える観察だってあり得る。
数学でフラクタルっていうのがあるんだけど、そうだな、海岸線を例にするとわかりやすいかも。
Google Mapとかを使って、上空から近づいてみよう。
海岸線の形は、地面に近づくに従い、形の中に形が現れるように、どんどん変わっていく。なだらかに見えた線も凸凹したりして。実際に海岸線に立って、砂粒にまで目を凝らせば、もっと凸凹形が現れる。形の中に形が折り込まれている感じ。
こうしたフラクタルのように、トレンドの中にトレンドが折り込まれて、さらにまた折り込まれて…という構造になっている。
つまり、このときのトレンドの認識は、たまたま、過去のたった一部分を切り取ってみているだけってこと。
いつだって、とある局面しか見ていないのが、ぼくたち人の認識の仕方。
だから、トレンドは参考にしていいんだけど、原因結果ではないことを知っておくべきなんだ。
信じている物語
じゃあ、いま着ている服や、いまの価格が、その過去のデータと、どんな関係があるかなんだけど。
全然関係ないってことになる。
いや、ちょっと語弊があるかな。
関係があるかもしれないし、ないかもしれない。それは、認識の外で起きてしまうことだから。
こんなこと書くと、戸惑う人が多いはず。
それは、たいていの人が因果関係を信じる物語の中にいるからだ。
信じていないと、うまく生きられないと思い込んでいる。
ちょっとの間、その信じるってことを保留してみるなんて、どうだろう?
そうすれば、評論家やアナリストが、分かった風にしゃべっていても、そのほとんどが後付けの説明でしかないことに気づけるだろう。
そして、そこに本当が含まれていたとしても、全部が本当じゃないってことにも。
だから、「へえ、そうなんだ」ぐらいに聞き流せるようになる。
不確かな感じの中に立ち止まってみる
さて、なんで、こんなにクドクド書いてきたかというと、
ぼくたちは、頭と尻尾を提示されただけの「原因結果」っぽい説明をたいてい受け入れちゃっている。
それで、原因をどうにかして、求める結果を得ようと、がんばっちゃう。
そんなことばかりしているってことに気づいたら、楽になる人がいるんじゃないかなって思ったからなんだ。
起こることが起こっている。
でも、望むことが起こって欲しい。
そして、納得したい。
とりあえずの原因、とりあえずの結果、
べつにそれを望んでもいい。
けれど、本当も見てみよう。
不安から逃れたいとか、
わからないという不確かな感じから逃れたい。
しかし、真実はその不確かな感じにこそあるんじゃないかな。
全宇宙が動き、うねって、提示されたもの。
起こることが起こっている。
ぼくたちのやってしまうことや、やらないでしまうことも、そこに含まれていて、それと無縁でいることはできない。
そして、ぼくたちは、そうした宇宙の、その一瞬と、その一部分を切り取って見ている存在だ。
そうであるなら、
たとえば、それが、あなたにとって、不快感や不条理さをともなうものであるとしても、
あなたは、その不確かな感じに留まる勇気を持てるだろうか。
ほんの束の間だけでもいい。
もし、そうしてみたなら、
あなたは、アメージングな世界を目にする扉を開くはずだ。