痛みを感じるなら、その痛みを感じている身体の箇所に異変があると気づく。
足が痛ければ、足に怪我したか、足に関連する病気かもしれない。
痛み以外の症状でも同じ。
症状があれば、身体の異変に気づき、何らかの手を打とうとする。
これが、痛み(症状)の持つ最も大事な機能なのは、みんな知ってる。
これを第1番目の機能としよう。
この第1の機能は、自分で察知できたり、病院で異常を見つけることができる。
だけど、異常が見つからなかったり、
異常を治したのに症状が続いたりすることも、よく起こる。
そこで、ちょっと役立つかもしれない筆者の考えを書きたい。
似たようなことは何度も書いているのだけど、
自分には当てはまらないと思ってしまう人がいるので、
ちょっと視点を変えての試みです。
3つのパートに分けて書く予定。
「感情編」、「欲求編」、そして、「分離と統合編」。
今回、取り扱いたいのは、2番目の機能、
感情をあらわす機能
感情はどこで感じているか
感情をどのように感じているか、思い出してみよう。
喜びを感じるとき、怒りを感じるとき、
悲しさ、楽しさ、
それらは、心で感じているのだろうか。
頭で感じてる?
よく観察すると、
胸のあたりに広がる感じがあったり、しぼむ感じがあったりしないかな。
感情は、身体の感覚とともにあるんじゃないだろうか。
そして、感情は、身体の動きで表されるのではないか。
表情、声も含めた、身体の動き。
瞳孔の開き具合や脈拍というのもある。
いずれにしても、脳は身体の感覚と感情を関連づけてる。
感情を抑えるということ
感情を抑えようとするからには、
最初に何らかの感情を感じてなきゃいけないはず。
たいていは、怒りとか悲しみとか、ネガティブとされる感情だね。
その感じてしまっている感情を表に出さないようにして、
その場にいる人に分からないように装う。
感じていないフリをする。
ときには、自分自身にすら、感じていないって思い込むことをしてしまう。
その感情がないことにしてしまう。
人それぞれの事情があって、そうしてしまうんだけど、
やってるのは、自分で自分にウソをつくってことだ。
そのために、身体を縮める、締める、こわばらせる。
背中の肩甲骨の間を固くする。
横隔膜を含めた上腹部を固くして、呼吸を抑制する。
その他、普通なら感情を表現するはずの部位を固くする。
こうやって、血流は滞り、コリができあがる。
通常なら、しばらくして、血流はもどり、コリは解消されるはずだけど、
時に滞り続けて…。
感情というエネルギー
感情を感じて表現すれば、身体の動きになる。
言い方を変えると、感情は身体を動かす力を供給してる。
ってことは、感情は、ある種のエネルギーだって言えないかな。
たとえば、
普段あんまり怒らない人が、怒り出すと、手がつけられなくなる。
ダムの放水のように、たまりにたまった怒りの感情エネルギーを放出するからだ、この際とばかりに。
こんな人の側にいるのは御免だけど、よく観察すると、当人に限っては、なんだか気持ちよさそうに見える。
エネルギーの放出は気持ちいい。
だから、放出のあとはサッパリした顔をする。
まあ、怒りの場合は、周りの人とギクシャクするけどね。
このギクシャクが嫌だから、感情の中でも怒りは、放出されずに、ためこまれることが多い。
症状に変換される感情エネルギー
抑え込もうとする状況があって、そこにエネルギーが流れ込む。
いや、ちょっと違う。
感情=エネルギーを感じて、抑え込む。
抑え込まれたエネルギーは、行き場を失う。
そうなれば、準備万端だ。
症状が出現する。
司令塔のつもりでいる頭に対して、
身体の堪忍袋の緒が切れるって感じ、なんだけど、
緒が切れるのは、身体だけとは限らない。
人間関係への波及
よくある相談にこんなのがある。
「いきなり、言われたんです。わたしがカチンと来るようなことを。
いつもは、そんなこと言う人じゃないから、何があったんだろって、
戸惑ってしまって。
わたしが不愉快になって、怒るの分かってるだろうに。
そういえば、最近、似たようなことが続いてて…」
お察しの通り、
これは相談者自身が、怒りをため込んでいることに、
周囲の人が反応させられてる、と、読み取ることができる。
あたかも、当人の怒りを発散させる方向へ手招きしてるかのようだ。
ところが、この人は怒らない。
怒っても、ちっとも十分じゃないくらいの少ししか、怒らない。
「私は、平和主義者です」とか、
「私は、争うのが嫌いです」とか言っている人ほど、
その人の周りでは、争いごとが絶えない。
もちろん、相互作用だから、周囲の人にも何かしらの要素はある。
どちらか一方を加害者とか被害者にしたいわけじゃない。
それに、社会的な解決を待たなきゃならない状況もあり得る。
だからといって、待っているだけでいいのか。
困ってる相談者の助けになるのは、何か。
と、考えるなら、
相談者自身の抱えている怒りが、周りの人の言動を引き出している可能性に気づく方がいい。
そして、その上で、自身の怒りと向き合う方がいい。
だけど、こういう人に限って、怒りをないものとして扱おうとすることが多い。
無視しちゃう。
自分の感情をネグレクトしてしまう。
そうなると、構造的なことを言っておけば、
その感情をもらたした人や物事との間に、隔たるような感覚を覚えるようになる。
と、同時に、周りの人も、その人にどこか嘘っぽさみたいな印象を抱くことになる。
こうして、人間関係の症状が維持されてしまう。
断っておくけど、必ずなるってわけじゃない。
じゃあ、なんで書いてるかって言うと、
この構造を理解していると、自分で対処できる範囲が広がるからだ。
ああ、もっと簡単に書こう。
周囲の人のせいにして、ぶちぶち文句を言うだけなら、構造は維持されちゃう。
変化は起きない。
他者に力を与えて、構造に依存しながら嘆くのはやめよう。
怒ったら負け、とか、泣いたら負け、とか、
そんな思い込みのために負け続ける必要はない。
力を取り戻せ。
素直に怒れ。
素直に泣け。
対処:感情ストレッチ
感じている感情を認めて、表現する。
ただ、それだけ。
それだけなのに、できない。
怖れる。
感情がわからない。
わからなくても、怖くても、やってみればいいんだけど。
そういう人は、感情のストレッチからやるといい。
それにはね、
声と身体を大きく使って、いろんな感情を演技するんだ。
実際に感じてなくていいし、だれかに見せる必要はないから、
思い切って、演技してみよう。
簡単な事例
かつて、筆者は偏頭痛持ちだった。
あるとき、外出中だったかな、起きて欲しくない頭痛がやってきた。
で、怒った。
「こら、頭痛! いま痛くなってんじゃねえよ。このやろう!」
できるだけ、普段使わない言葉を使うのがコツ。
しかも、このときは小声だった。
そして、頭痛は、おずおずと、すみませんって言いながら消えた。
これは、今回の感情編だけでなく、この文章シリーズの他の要素も混じってる。詳しくは別の文章に譲るけど、頭痛を怒ったのではなく、怒りを道具に、頭痛と協調するってことをやったんだ。
それはともかく、こういうことはあり得るんだ。
こんなにバッチリ決まることは少ないかもしれないけど、
やってみる価値はありそうでしょ。
なにしろ、身体が痛くて動かせなくても、人間関係で困っていても、病院の治療を受けながらでも、無料で、自分だけで、試せるんだ。
親である人へ
最後に付け加えておきたい。
こどもの感情表現を抑え込んではいけない。
こどもが適切な感情表現ができるようにしつけるには、
親である人が、適切な感情表現をしなければならない。
親が自分の感情を抑えていれば、
こどもはそれを察知して、親の代わりに表現しようとしてしまう。
その表現すらも抑え込まれたら、こどもは表現の意欲を失う。
だから、親である人は、年長者である知識をもって、
適切に自分の感情を表現しなくてはならない。
それを見て、こどもは適切な表現を身につけるだろう。
そして、感情は、芸術に変容できることも知ろう。
踊る表現に誘ってみよう。
歌う表現に誘ってみよう。
絵を描いてみよう。
言葉にして、感情を伝え合おう。
こどもも親である人も、余分な荷物を背負い込む必要はないのだから。