主体的に生きるために 3
「人間関係のために質問をためらってはいけない~主体的に生きる2」では、推測と合意の観点から「怒り」の感情に少しだけ触れました。
ここでは、感情と行動の関係をより深く探って行きます。やや複雑な論旨ですが、感情は感情のままに感じながらも、振り回されない人生であることの試みです。
終わりの方にエクササイズもあります。
前回に引き続き、筆者の咳症状からです。前回を振り返りたいなら、こちら
苦しいとき、「やってしまうこと」と「何もしないでいること」の違い
咳の症状に対して、筆者がやっていたことを整理してみます。
[咳がひどい]⇒[苦しい]⇒[この苦しさを何とかしなくちゃ]⇒[つまり咳を何とかしなくちゃ]⇒[行動(医者へ行く、薬を飲む、等々)・様々な考え(迷惑かけるかも、メッセージかも、インナーワークしなきゃ、等々)]
こんなにもいろいろやっています。そして、まあ、これが普通なのかなと思います。
次に、何もやらないと言うことは、どういうことかを書きます。
[咳がひどい]⇒[苦しい]⇒[苦しさを、感じながら、ただ眺めている]
こんな風です。
あきらめのようですが、少し違います。
ここでは、苦しさを受け入れている、拒否しようとしていない、紛らわそうともしていない。
受け入れるなんてことを嫌だなと思っても、その嫌だなも受け入れている。
嫌だなを拒否しようとしないし、紛らわすこともない。
戦わない。
起こることは、起こる。起こることを許している。
こんなことしたら、苦しいのが続いてしまうのではないか、そう思われる人もいるでしょう。
ところが、結論を言えば、治まるときに治まってきます。
うーん、たいてい治まってきます。
このように書くとやりがちなのは、「咳を鎮めよう鎮めよう」と思いながら、苦しさを受け入れようと頑張ってしまうこと。
咳を鎮めようなどと思ったら、思い浮かんだものはしょうがないと、その思いを放っておけばいいのです。
そうでないと、咳が出る度に、「まだ鎮まらない」となり、ついには「ちゃんと苦しいのをがまんして受け入れたのに、だめじゃん。結局変わらない。やっぱり苦しい。苦しいの嫌だ」になります。
ちなみに、こうなったので、筆者は、病院へ行くという行動に出たわけです。そして、それでいいのです。
「苦しいの嫌だ」と思うのはどういうことかと言うと、そう思い続けることで、咳を押さえ込もう、コントロールしようとしているのです。ところが、そうはなりません。
むしろ、そう思い続けることは、心にも重荷を背負わせてしまうので、咳を増強し、長引かせることになるだけです。
苦しさを受け入れるということは、思うことによるコントロールをあきらめ、苦しさを味わうことなのです。
そうすると、心の重荷が減るため、苦しさは軽くなったり、どこかへ行ってしまったりということが起こる余地が生じます。
これは、咳だけでなく、身体の諸症状、対人関係、あるいは、その他諸々でも同じです。
「なに言ってるかわからない」、「信じられない」
大概、そう言われます。もう少し、説明を加えてみましょう。
ある出来事を経験したとき、人はどのように反応して行動するのか
出来事を経験すると、感情が生じます。その感情は、好ましいか、嫌か、に瞬時に判断されます。それが出来事に関連付けられ、いい出来事と悪い出来事に分類されます。そして、それぞれに対応する行動・思考が生じます。
[出来事A]⇒[感情の動き]⇒[この感情の動きが◯か☓で、2つに分かれる]
◯なら⇒[この感情◯]⇒[出来事A◯]⇒[継続・増強・再現を願う]⇒[行動B]
☓なら⇒[この感情☓]⇒[出来事A☓]⇒[拒絶・軽減・変化を願う]⇒[行動C]
単純化していますが、人の行動を考えるとき、おおよそこのようなパターンに従っているように見えます。
人は、感情をコントロールするために、出来事Aをコントロールしようとします。
特に、☓感情を解消したり、避けたりするために、様々な手段を講じます。出来事A、その原因となる出来事、そのまた原因となる出来事、さらに遡って、働きかけます。
それすらかなわないときには、代償行動によって、☓感情を紛らわそうとします。
あるいは、他者に肯定してもらうことによって、落ち着かせようとしたり、感情そのものをなかったことにすることもあります。
つまり、人の行動は、論理よりも感情に左右されているようです。特に、☓感情を変えるため、☓感情を避けるために努力します。
☓感情をもたらした原因を見つけ、それを取り除こうとするか、避けようとする。
いくつか、例をあげてみます。(実際はもっと個別的で複雑な部分もあるはずですが、ここでは簡略化させていただいてます。)
●今回の咳の例:
[咳が出る]⇒[感情の動き]⇒[苦しい、これは☓]⇒[苦しいのは咳のせいだから、咳が☓]⇒[この咳を変化させたい]⇒[病院へ行く]
●ギャンブル(パチンコ)の例
[パチンコで当たる]⇒[感情の動き]⇒[やったぁ◯]⇒[パチンコ◯]⇒[もっとやろう]
次の、ある引きこもりの例は、書くと複雑に見えますが、行きつ戻りつの繰り返しがあるだけで、パターンは同じです。
●ある引きこもりの例:
[他者に何か言われた]⇒[感情の動き]⇒[恥ずかしい☓]⇒[恥ずかしいのは他者に会ったから、他者☓]⇒[これを防ぎたい]⇒[引きこもる]
⇒[感情の動き]⇒[寂しい☓]⇒[他者と会いたい。しかし、また何か言われるかもしれないから、恐い]⇒[恐い☓]⇒[引きこもる]⇒[☓感情解消できない]⇒[暴れる]
●前回の医師との例:
[医師の発言と笑い]⇒[感情の動き]⇒[怒り☓]⇒[この医師☓]⇒[もう来ない]
●前回の医師との例(筆者の提案):
[医師の発言と笑い]⇒[感情の動き]⇒[怒り☓]⇒[この医師?]⇒[質問する]
もう少し書き方を工夫できたらよかったのですが…。おおまかにパターンをつかめていただけたでしょうか。
[質問をする]という行動が、このパターンを崩す方法の1つであることもおわかりいただけると思います。
すべては◯感情のために
社会事象の様々を見たとき、上でみたパターンを見出すことができます。
医療行為は、まさにこのパターンの典型例です。
それから、株式市況を初め、経済状況を表す言葉には、気分を表す言葉が多用されています。
政治家は有権者の気分を気にしていますが、自身の◯気分のためでもあります。
経営者は、消費者の気分を気にしますが、自身の◯気分のためでもあります。
人は、人生において、より多くの◯な気分を味わえるように、どうにかして状況をコントロールしようとしています。そう見れば、犯罪も刹那的であるにせよ、やはり感情を元にした行動Bや行動Cの結果だと言えます。
すべては、◯感情を得るために。
そんなスローガンがあるかのようです。努力、努力、努力…。
さまざまな方法論、法則、成功物語が生み出されます。
うっかりすると、いつか未来に味わう◯感情のために、現在の感情がないがしろにされたりします。
あるいは、ようやく得た◯感情を失うんじゃないかと不安に…、あれえ? ☓感情になったりします。
このことが、いいとか悪いとかを言いたいのではありません。私たちの感情と行動について意識的に見てみようとしているだけです。
もし、このようなパターンを支持するとするなら、私たちは原因結果の論理に縛られていることになります。
☓感情の原因である出来事Aを改変しない限り、◯な人生にはならないからです。
そして、全ての◯感情は、つかの間です。とたんに☓感情に入れ替わります。だから、頑張り続けるしかなくなります。
しかし、頑張ったからと言って、簡単に改変できる出来事Aばかりではありません。むしろ、改変不可能な出来事Aだらけです。
なにしろ、人生には「死」という出来事が見え隠れしています。
このままですと、私たち、人は、出来事Aの被害者であり続ける生き方しかできないことになってしまいます。袋小路に迷い込む人生なのでしょうか。
そこで、ここまでそっと保留にしていた疑問を提示せざるを得ません。
私たちは、出来事Aを正確に認識できているのか。
私たちの感情は、出来事Aによって引き起こされているように見えるが、本当にそうなのか。
そもそも感情が、◯感情、☓感情と判断されているが、その根拠は何か。
簡単な例で検討してみましょう。
部屋を認識してみる
あなたは、いまいる部屋を認識できていますか?
よく、目にしたものしか信じない、という人がいますが、そのつもりで周りを見回してください。
あなたの背後、後頭部の方向はどのように認識していますか?
十分に分かってるさ、と応えるなら、マジシャンにしてやられるでしょう。それとも詐欺師のカモにされてしまうかも。
あなたが十分に認識していると思っている後頭部の方向は、あなたの記憶の中にしか存在しません。いま、この瞬間、あなたは自分の背後について、憶測で語ることができるだけです。
それから、部屋のどこか指さしてみてください。壁、窓、あるいは何か物がありますね。それと、あなたの目との間、途切れているところがないか調べてください。間にある空間と呼ばれるところを無視せずに、しっかり見ます。無があるでしょうか。どこかにそんな箇所がありますか? プチッと途切れる箇所です。
見えているということは、光がちゃんと伝わっているのですから、つながっています。当たり前と言えば、当たり前です。
つまり、一続きです。
その一続きから、区切り取って自分の身体と認識し、区切り取って、指さした物と認識して見ています。
夜空の月を見上げるとき、あなたと月は一続きです。その一続きから、月を区切り取って月と認識して見ています。
このような書き方でないとすれば、こう書いてみましょうか。
出来事Aは、ある量子配列・確率分布であり、全宇宙と関係を保っています。つまり、出来事Aは、本来、宇宙全体の配列・確率分布に馴染んでいます。塗り込められている、いや、それそのものです。つまり、出来事Aには、どこからどこのことであるという明確な区切りがありません。
この区切りのないものを、何らかの方法で、全体から区切り取って見ています。その区切り取った部分に便宜的に出来事Aというラベルを貼ったのです。これが出来事Aの成り立ちです。
こうして、出来事Aの認識は、憶測と区切り取り方しだいということが分かります。
では、区切り取りと感情とのつながりをみるために、もう1つ例を検討します。
雪が降るのを見たとき、そこに生起する感情は何でしょう。
交通機関を使う予定もなく、雪かきの役目が回って来ないと分かっていれば、単純に綺麗だなと思える◯な感情でしょう。
でも、そうでなければ、憂鬱な☓感情かもしれません。
このことは、何を示しているのでしょう。
人は、雪が降る、これをありのままに眺めることができていない。
感情は、行動のために利用されているとするなら
自分の置かれた立場、TPO、過去データ、未来予測、あるいは自分がどうしたいのか、そういった事々を引っくるめた信念体系に基づいた思考。その思考が色眼鏡のようなフィルターの役割をして、区切り取り、意味づけされた出来事Aを創出しているのだと言えないでしょうか。
そうであるなら、行動Bも行動Cも、この意味づけに沿った行動になるはずです。
自分の見解では、こうだから、こうする。
自分の考えでは、こうだから、こうする。
自分の習慣では、こうだから、こうする。
自分の意味づけでは、こうだから、こうする。
自分のフィルターでは、こうだから、こうする。
なぜなら、私の感情は、こうだからだ。
そして、この時の感情は、決して生(なま)の感情であるはずがありません。◯にも☓にもなり得ますが、行動Bあるいは行動Cの動機として利用できる必要があるのです。
ここまでを、まとめてみましょう。
出来事Aは、信念体系というフィルターを通して意味づけされた、言わば物語である。
この意味づけを真実らしく見せるために、行動Bと行動Cはある。
この動機のために、本来◯☓を伴わないはずの感情に◯☓判断を付随させている。
ここで、新たに提案されたのは、前半で、さり気なく使っている「⇒」が錯覚でしかないのだということです。
それは、出来事Aという物語に、感情も行動も巻き込む必要がなく、もっと自由に羽ばたけるのだという見解です。
出来事Aに対し、行動Bだろうと行動Cだろうと、その他の行動であろうと、やってもいいし、やらなくてもいい。努力してもいいし、しなくてもいい。
そうした、もっと気楽なところから、行動は出てきていい。
感情は感情のままに、放っておいていい。
もっと素直に感じていい。
それは、感情を出来事Aのせいにしないということです。
過去や未来の出来事のせいにしない。
そうなると、必然的に、よく言われるトラウマなどというものは放り出すしかありません。何のために、その思いにしがみついているのか、自分を疑ってみるべきです。
自分の思いがどうであろうと、起こることが起こり、なるようになっていく。
こんな考えは受け入れられないですか? 冷たく感じますか? 反発しますか?
反発する人が多いかもしれませんね。
あんな事件があったり、こんな悲惨な事故があったりするのに。
愛する人を亡くしたというのに。
現に、この地球上で苦しんでいる人が大勢いるというのに。
現に、痛みで夜も寝られないのに。
人は、だれでも個人的な物語を抱えています。
その物語によって、私、あなた、彼、などの個人や集団が規定されています。
筆者はそれをどうこうしようとするつもりはありません。
ただ、膠着したこだわりの中に止まっている必要はないのだ。重たかったら、下ろしていいのだと伝えたいだけです。
そういうことですから、いらない人はいらないままでいいんです。
もしも、そうした物語を頭の中で繰り返し再生することに疲れたら、
そんなことのために死にたくなったりするのなら、
そこから抜け出したくなったなら、苦しさを終わらせたいのなら、
そういう方たちのために、1つの見解をお伝えしました。
ここに、ひょっとすると、出口があるのかもしれないからです。
最後に、実際に体験できるかどうかはともかく、やってみようと思えるなら、次のエクササイズは出口になるかもしれません。
エクササイズ~感情のストレッチ
筆者のセッションでは、このエクササイズを2つの段階に分けてお伝えしています。
1.感情を感じて、表現すること。
感情を思い出しながら、クッションを叩いたり、怒鳴ったり、歌ったり、踊ったり、主に身体を使った表現として、感情を出す。
たいてい☓感情を扱います。それは、感じてはいけないとか、表現してはいけないと思い込んでいて、あるのに、ないふりをしていることが多いからです。記憶と一緒に身体にしまい込まれた感情を、まずは表現することに十分慣れてもらいます。
できるだけ、ありありと思い浮かべましょう。慣れないうちは、小さな感情からやってみる方がいいかもしれません。
筆者は、これを感情のストレッチだと思っています。怒りをビューンと伸ばしたり、固めたりみたいな。
これをやるだけでも、なんだか気分が軽くなる、そう感想を教えてくれる人が多いです。
その反面、ためらってしまい、なかなかできない人もいます。1人になれる場所と時間を確保して、チャレンジです。
これをやることに慣れたら、次の段階です。
2.感情を感じながら、一切の表現をしないこと。
何もしない。行動Bや行動Cを封じてしまう。感情を何にも利用させず、感情を感情のまま、ただ味わうのです。これにはちょっと勇気がいります。感情の真っ只中へダイビングするようなものです。
やってみると、感情から◯☓がなくなります。いやいや、より本来の生(なま)の感情と親密になって行きますから、それはもう◎を超えます。
意味づけが剥がれて行きます。フィルターが透明になって行きます。時間も記憶も失います。現状が肯定されます。つまり、出来事Aの問題が問題に思えなくなります。
それが、いまここ、です。
ずっと目をそらし続けていた、いまに出会います。
と、なることを期待しないで、やってみてください。
まとめ
実は、あなたも私も、出来事Aだということ。
あなたも私も、人はその個人が持つフィルターで、全体から区切り取られた存在です。個人の存在、その個性、そのふるまい、その人生は、やはり出来事Aです。
それが、いいとか悪いとかではありませんが、結局、あなたも私も、人は宇宙に塗り込められた存在なのです。