最近、新規のクライアントさんの中で多い症状、耳鳴り、です。
耳鳴りの聞こえ方
一口に耳鳴りと言ってもいろいろのようです。
何十匹もの蝉が鳴いているような音が始終続いている人。
金属的な音が鳴っている人。
水の中のようなくぐもった音が聞こえる人。
睡眠時のうるささに寝不足を訴える方もいます。
人と話をするのに苦労する人もいます。
当院にいらっしゃる人は、すでに耳鼻科で診察と治療を受けていらっしゃいます。けれども、経過はあまり芳しくなく…。こんな音がずっと続くのなら、死んでしまいたいとまでおしゃっる方もいます。
このような方々に対して、どのように手を差し伸べればいいのでしょう。
そうそう、当院にいらしても、病院はやめないでくださいね。
耳鳴りへのアドバイス
まずは、十分な時間をかけて、経過と現状を伺います。
いろいろな思いを吐き出してもらいます。
そして、1番重要で、しかも難しいアドバイスを差し上げます。
「耳鳴りに、耳をすませてください。耳鳴りをしっかり聴いてあげてください」
これには、たいてい反発されます。
「いやです。だって、ずうっと鳴っていて、聞かされ続けているんですよ。それに耳を傾けろだなんて。そんなことして、もっと悪くなったらどうするんですか」
お気持ちは、とても分かります。分かるのですが、それでも、短時間でもいいですからやっていただくようにお願いしています。なぜなら、クライアントさんのこの発言にこそ、耳鳴りが継続してしまう要因が隠れています。私のこれまでのブログをお読みの方は、すぐに分かると思います。
● 聞かされ続けている。⇒ 私は犠牲者だ。
● もっと悪くなる。 ⇒ 将来に対する怖れ。
● 耳を傾けたくない。 ⇒ 防御の努力をしていないといけない。できなければ、負け。
ちょっと不快に思う方もいるかもしれませんね。
なぜ、このように言えるのか。この辺りの構造をもう少し掘り下げて書きたい気もしますが、そうしますと、またしても長い文章になってしまいます。それはまた別の機会に譲るとして、興味がある人向けに、簡単なキーワードを挙げておくだけにします。死の恐怖、罪悪感、そして、愛。
耳鳴りへのアドバイスの意図とは
さて、耳鳴りの解決に向かいましょう。というより、私のアドバイスへ戻りましょう。
このアドバイスは耳鳴りを積極的に聴こうとするものです。どのような意図があるかというと…、
● 聞かされ続けているという犠牲者の態度をやめること。
● 聴いてみるとわかりますが、悪くなることはないことを知ること。多少の強弱があったり、むしろ、それほど耳鳴りがしない時もあると気づくこと。
● 防御をやめること。勝ち負けの戦場から出てしまうこと。
アドバイスによって何が起こるか
このアドバイスを生活の中でしばらく続けていただくと、耳鳴りにパターンがあることに気づきます。どんなときに強くなるのか、どんなときに弱くなるのか。そうなってくると、信じられないでしょうが、耳鳴りを楽しむような発言も飛び出してきたりします。
また、それとは対極に、悪くなるように感じることも出てきます。
これは、たいていの場合、
「こんなに聴いてあげてるんだから、もうよくなってもいいでしょ」
「耳鳴りを消すために、聴いてやってるんだ」
このような態度は、怒りです。怒りの下には、これまた犠牲があったりしますが、ここでは、それに目を向けるのは後回しにして、怒りを適切に処理してしまうのがよいと思います。適切に処理というのは、クッションを殴ったりなどして、表現してしまうということです。他者に向けて吐き出してはいけません。八つ当たりみたいな行為は、自分の中に罪悪感を抱えてしまうことになります。自分なりに発散しやすい方法を見つけていただくのがいいでしょう。
耳鳴りを消すために、耳を傾ける。けれども、消そうという思いが強いといけない。
いい加減がいいのです。
あるいは、泣いている子どもに、どうして泣いているのかを聴こうとしている大人のような感じでやっていただくのがよいのです。そして、慣れてきたなら、子どもと遊ぶような感じで、耳を傾けられるようになっていくはずです。
耳鳴りに対する整体術の役割
では、整体術は?
それは、それなりにやりますが、正直に言いますと、あまり重要ではないのです。防御のために、頭から腰の辺りまで固くなってしまっていた筋肉をほどくことが主になるでしょう。私の場合は、もう少しおまけを施しますが。
ついでですから、もう1つ正直に書きます。
今回、耳鳴りとして書いていますが、腰の痛み、肩こり、膝の痛み、風邪、人間関係の悩み、その他、諸々、多少の違いはあれ、対処の基本は同じだということです。
かなり一般化して書いてみました。
途中でも、お断りしましたが、犠牲者とか、怖れとか、防御とかいう言葉に不快な感じを持つ方もいるでしょう。自分はそんなことない。自分にはそんなの関係ないと。しかし、不快な感じを持ったという点において、やはり、関係あるのです。これは、心の弱さを言っているのではありません。これは、心の習慣です。この世界を生きていくのに必要だと思い込んで、身につけてしまった習慣なのです。それに気づいて行きましょうというお誘いの手紙を、私はここに書いているのかもしれません。
では、また。