死と生のために~for Truth

本来の自己

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主体的に生きるために 9

最初に1つの覚醒物語を記しますが、それはまったく必須のものではありません。人それぞれに物語が起こります。
これは、本来の自己という洞察を記すための1つのイメージに過ぎません。とらわれないように、お願いします。

覚醒物語

ティムの目をみる。
彼の言葉を手がかりに、内面を探る。
かたわらの通訳が顔見知りなのが心強い。
少なからず気恥ずかしさを覚えるのは、数十人の目がこちらに向けられているからだ。
とあるワークショップのことだった。私はオープンシートに手をあげて、前に出たのだった。オープンシート、他にも呼び方はあるのだろうが、心理系のワークショップなどでは頻繁に行われる。簡単に言えば、受講生の理解を促すために行うデモセッションの被験者募集だ。出れば、当然、自分をさらすことになる。得ることは多いと重々承知していながら、過去に参加した様々なワークショップでそんな風に前へ出たことは一度もない。しかし、この日は違った。
ここ一月ほど、明け方の4時ぐらいに、自分の心臓の音で目が覚めることが連日だった。おかげで寝不足感が著しい。もともと脈拍は非常にゆっくりしていて、普段は秒針より遅く、安静時になると50を切る。それが午前4時に高鳴るのだ。病気かとも思ったが、その他に症状はない。試しに坂道ダッシュで120を超えさせてみたりしたが、なんともない。せっかくだから、これを材料にしようと思いたち、手を挙げたのだった。
週末を利用しての5日間のワークショップも後半にさしかかっている。場は馴染み、心も大分ほぐれているからだろうか、ティムの言葉を素直に受け取る自分がいる。症状を感じる部分へ、それ以外へ、等等、意識を向けていく。
と、ズルリ…。咄嗟に、やばいと思った。ずれた。目眩かとも思ったが、ずれている。意識が身体を出てしまった。何だ、こりゃ。ティムを見ると、間違ったことが起こっているわけではないという目をしている。そろりと、今度はみんなの方を見る。このときばかりは、みんなの視線に支えられている気がして、このまま行こうと思った。
状態を確かめる間もなく、意識は拡大した。身体を超えている。すぐに部屋いっぱいにまで広がった。もう一度、みんなの方を見る。みんなが、私の意識の中に息づいていることを知った。もっと拡大する。宇宙が、全てが私に含まれていることを知る。そして、その中で様々な出来事は起こり、起こる全ては許容されている。戸惑いが、なめらかな伸び伸びした感覚に置き換わっていく。なんという自由だろう。一切の制限がない。それがまさにここにある。呼吸より間近、こんな近くに。旧友に再会したかのような懐かしさを覚える。どこかへ探しに行く必要もなく、見出すための条件すらないままに息づいている。その懐かしさゆえに涙がこぼれ、その単純さゆえに笑い声を抑えきれない。
これこそが、本来の自己である。
不意に不安がやってくる。これを失うのではないかと。
そのことを告げると、ティムは微笑んで、その不安をよく見なさいと言う。
言われるままに見ると、本来の自己である気づきの視線は、個としての自己が抱える不安を解きほぐし、消失させてしまう。
不安に実体はない。個なる自己にすれば、切実な不安なのだろう。しかし、本来の自己にすれば、それは虚構でしかない。だからといって、本来の自己は個を否定しない。その抱える不安すら否定しない。それらもまた、許容されている。
ああ、みんなも気づけばいいのに。それとも、こんなに単純なこと、みんなはもう気づいているんだろうか。
気づくことも、気づかないでいることも、どちらも許容されている。

昼、蕎麦を食べに出かける。
それだけなのだが、これが始終、次のような感じだった。
本来の自己の中を個なる私が歩く。
本来の自己の中をみんなが歩く。
本来の自己の中にある店に入る。
本来の自己の中にあるテーブルにつく。
本来の自己の中で、本来の自己からなる蕎麦を個なる私が食す。
本来の自己からなる個なる私は、本来の自己からなるみんなと話をする。
なんと、全てが愛おしいことか。
目にする全てが、なんだか、可愛く見えてしまうのだ。

翌朝は、心臓に起こされることもなく、さわやかな目覚めをむかえた。だが、数週間して、戸惑うことが多発する。日常との兼ね合い、仕事との兼ね合いなど、それは追々記すことになる。

以上は、1つの覚醒物語に過ぎない。勘違いされたくないので、明言しておくが、宗教物語を構築したいのでもない。もちろんワークショップの宣伝でもない。そうした場に参加することが条件としてあるわけではない。だから、固有名詞は出さない。
これは単なる記憶だ。イメージだ。ことさら、個なる私を主張したいがために記したのではない。むしろ、このことが、個を超えてあることを言いたいがためである。
特別なことではない。

覚醒は全ての人が経験する

おそらく、全ての人が経験しているはずだ。いや、この中にしか存在は現れないのだから、全ての人の経験そのものだ。ただ、その経験を実感できるとか、知るとか、あるいは言語化する機会があったかなど、その程度の違いでしかない。真実、これを書いているのは、あなたなのだ。
幼い頃、自分というものの認識が未発達であったとき、まさにこの通りにある。やがて起きる自己認識の発達は、個なる自己との一体化を招く。つまり、傷つくことが容易なこの身体に同化し、全体性から分離された意識こそが私である、という思い込みを定着させる。そうして、世界は利用するもの、戦う場所へと変貌する。それは、自分の存在に条件を加えてしまうことに他ならない。その条件を巡って、人生の戦いが繰り広げられる。地位、権力、財産、愛、美、…。様々な価値観が交錯する。そうやって、存在をコントロールしようとするが、たちまち大きな壁が立ちふさがる。病、老、死である。その避けようのない壁の不安から逃れるために、より一層の様々な価値へ中毒していく。ある人は仕事に、ある人は遊びに、ある人は知識に、ある人は恋に、ある人は人助けに…人生を邁進させていく。これはこれで悪くはない。そうした中でも目覚めは起きる。ふとした瞬間に我を忘れ、陶然とした感覚に包まれる。だが、それは長くは続かず、日常の些末な事柄と共に忘却されていく。筆者を含め、多くの人がたぶんそうだ。というより、そんなことに立ち止まったり、これは何だなどと疑問を持ったりしない方が、社会システム上うまく生きられる。逆に、社会システム上うまく生きられていれば、疑問を持たないのだと、そういう風に思い込んでいる。
どちらがいいとか、どうこうしなければとかではない。どうあろうとも、本来の自己の範疇でしかないのだから。ただ、息苦しさは不意にやってくるのかもしれない。そうなれば、価値観がゆらぐだろう。
もし、そうならば、ここに気づくことが救いになる可能性はある。

本来の自己とは

先を続ける前に、少し立ち止まろう。
本来の自己とは何なのか。
ここまでは、本来の自己という呼び方をしているが、他にもいろいろな呼び方ができる。大いなる自己、気づき、目覚め、真実、悟り、ワンネス、根源、光、宇宙、神、…。どう呼ぼうとも、これを定義づけることは難しい。どの言葉にもそれを発する人、聞く人の思いが付着しているし、そもそも思考で捉えることはできないからだ。それでも遠からずのイメージは役立つと思う。そこで、概念的なことをいくつか書いておきたい。

それは、たった1つの生命である。この生命が、様々な現れをしているのが世界であり、あなたであり、私である。それは、どんな小さな断片にも存在し、そして全体である。それは、観測できない。観測しようとするあなたが、それであるゆえに、見出すことはできない。ただ、直感的に垣間見る機会があり得るだけだ。その機会は、たまたまだれかに起こるということがあるだけで、確実に機会をつかむなどという方法はない。なぜないのかと言えば、方法は思考であり、思考もまたそれの現れだからだ。全てのあらゆる思考も、またそれを離れては存在しない。
したがって、個としての自己という自意識と名付けられる思考は、本来の自己から離れてはあり得ない。だから、探す必要はないのだ。ただそのままで、本来の自己そのものだから。

このことは、よく海に例えられる。
本来の自己が海とするなら、個なる自己は波である。様々な波があり、波は自身を分離独立した存在だと思い込んでいる。そうであっても、波は海に属しているに違いなく、海はどのような波であろうと許容している。

数学の集合という考えを使えば、数学的に正しく書けるかどうかはともかく、こんな感じかな。
個なる自己は、1つの部分集合である。
本来の自己は、あらゆる部分集合を含む全集合であり、その外を持たないただ1つの集合である。

地球という例えもいいと思う。
地球上には様々な生命が息づいているように見える。しかし、それらは、たった1つの地球という生命の現れ、表現である。

人体という例えもある。
細胞1つ1つは息づいている。しかし、それは、1つの人体という生命に属している。

映画のスクリーンに例えることも多い。
本来の自己はスクリーンである。あなたも私も、あらゆる出来事はスクリーンに投射された映像に過ぎない。

眠っているときに見る夢という例えもよく使われる。
登場人物である私や敵役、その他の人びと、小物、舞台背景、その全てを作り出したのは、だれなんだろう。

どの例えも、ある一面を表すだけで、本当のところへは届かない。それは、何度も言うが、思考で捉えようとするのは不可能だからだ。それでも言葉を駆使して記述しようとすると、複雑さが増すばかりで、むしろ真実から遠ざかる。とりわけ、そのシンプルさが失われてしまう。おおよそこんな感じ、というところで妥協するしかない。そして、その妥協の居心地の悪さを味わうというのが、案外いいのかもしれない。上述の映画のスクリーンの例えは、プラトンの洞窟の話を思い起こさせるし、夢の例えは、荘子の胡蝶の夢を思い起こさせる。彼らがどのような目的で書いた話かは置いといて、その話の居心地の悪い感覚に魅せられるなら、見ている世界を見直そうという動機になり得る。
しかし、ここで、やはり言及しておいた方がいいのは、頭での理解と、それを実感して知ることとは、違うのだと言うことだ。頭での理解は、実感が起こったときに慌てない準備として悪くはない。反面、その理解は、いま起こる実感を未来に追いやることにもなりかねない。努力してしまうのだ。わかることに努力はいらない。修行も必要ない。実感して知るようになるためにできることは何もない。ただ、力を抜く、それだけだ。

本来の自己を知ることで得られること

さて、1番の興味は、これを知ることで何が得られるかである。
不思議なことは1つも起こらない。
知る以前に期待したようなことは、起こらない。
聖人君子になるわけではない。
普通に日常はある。
強いて言うなら、その日常が新鮮に感じられるということだ。
そこには、自由の感覚がある。気楽さがある。
その自由は、たとえば喜怒哀楽を感じることに躊躇がない。それはTPOを無視した行動をしてしまうということではない。感じていることを認めていて、それを表現することが起こるか、起こらないかオープンなままいるということだ。
具体的には、他者の痛みをもよく感じてしまうのだが、そうだからといって常に寄り添うことや手を差し伸べるということが起きるわけではなく、突き放すことが起きるかもしれない。そのどちらかが、あるいはもっと他の何かであっても、起きることが起きるということを許容している。
あらゆる起きることの全てを許容しているという自由、これこそ、あるがままということだが、その底を支えているのは圧倒的な大丈夫の感覚である。感情は海の波のように様々に揺れ動くが、その底には静かな大丈夫の海流がある。それは、全ての出来事が、本来の自己の表れであることを知っていることから来る。道ばたに落ちているゴミ、きれいな花、太陽、犯罪者、英雄、ロケットを打ち上げること、お金持ち、貧乏人、病気になること、殴る人、寝ている人…、すべて本来の自己の表れ。
納得できないかもしれない。
暴力、虐待、殺人、戦争、こんなことも許容されているのか、と。
もちろん、許容されている。
だが、勘違いしないで欲しい。暴力を甘んじて受けなければいけないとか、戦争に賛成しなければいけないなどと言っているのではない。そんなことは許容ではない。戦争が許容されていると同時に、これに反発することも、それに付随する諸々の事どもが、もちろん許容されているのだ。
そうは言っても、やはり納得はないだろう。個なる自己は、納得ではなく、得することを求め続ける。いまある痛みをどうにかできないかとあがくことをやめない。
実は、このことにこそ、公然の秘密がある。

次回へ続く。

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